TOMOKO OOSUKI

イラストレーター オオスキトモコのブログです。

【私の提出意見】「生成AIを巡る競争」に関する情報・意見の募集について(公正取引委員会)

本日、「『生成AIを巡る競争』に関する情報・意見の募集について(公正取引委員会)」に意見を提出しました。

www.jftc.go.jp

私はイラストレーターなので、イラストレーターとしての意見となってしまいますが…
少しでも、ご自身で意見提出される方のご参考になればと思います。
もし「賛成!」と思っていただけた部分があれば、その部分はどうぞご利用ください。

私が提出した意見

私は「第4」にのみ意見を書きました。(そういう提出の仕方もできます)

第4 おわりに(公正取引委員会の今後の対応)

1. これまで本ディスカッションペーパーが触れていない事項で、生成 AI 関連
市場(インフラストラクチャー、生成 AI モデル、生成 AI プロダクト)の現
状などについて公正取引委員会として注視すべきことはありますか。

私は、フリーランスイラストレーターとして、20年以上の経験がある者です。
以下、実際の経験や、職業的知見を元に述べます。

本ディスカッションペーパーは、全体に「生成AIを開発する事業者」や「生成AIを活用するクリエイターやアーティスト」など、「生成AIの利用者」の利益を最大化する立場で書かれており、「学習データの供給元となる人間」からの観点が『一切ない』という印象を受けました。
学習データとなる著作物を作っている人間がいる、データを作るのも人間である
という前提認識がないのではないでしょうか。

「学習データの供給元となる人間」にも利益(経済的利益)を還元するべきであり、そういった観点からの検討もされるべきであると考えます。

シカゴ大学では生成型人工知能 (GenAI) の侵入的使用から人間のクリエイターを保護することを明確な目標として、技術ツールを開発する研究プロジェクト「Glazeプロジェクト」が立ち上がっています。

https://glaze.cs.uchicago.edu/aboutus.html

glaze.cs.uchicago.edu

2. 生成 AI 関連市場における独占禁止法・競争政策上の論点について、本ディスカッションペーパーで取り上げた論点以外に考慮すべき論点はありますか。

発注者側が無償、または同種・類似のイラストの一般的な対価に比べ、比較して著しく低い金額で著作権の譲渡や著作者人格権の不行使を求めることは、独占禁止法・下請法・フリーランス法における「買いたたき」や「不当な経済上の利益の提供要請」に該当してくる(違法行為となる)可能性があります。

参考:コンテンツ取引と下請法

https://www.jftc.go.jp/houdou/panfu_files/contentspamph.pdf


その一方、私が知る限りの現状としては、「知財専門の」弁護士や弁理士の大半(体感では9割以上)は企業向け法務の経験しかなく、個人のクリエイターの立場で法律の検討ができません。具体的には、著作権法独占禁止法・下請法・フリーランス法を同時に検討することができていません。


著作権譲渡をしないと企業は安心して使えない」というようなことを、クリエイター向けセミナーで発信する弁護士を実際に見たことがあります。
また、文化庁の相談窓口(弁護士知財ネット所属の弁護士が担当)でも「著作権譲渡は当たり前」というような回答を受けた経験があります。

iplaw-net.com

結果として、クリエイティブ制作取引において、企業側が本来の依頼業務で必要のない著作権の譲渡までも、かなり気軽かつ安価に求める ということが、かなり一般的になっています。
弁護士・弁理士に限らず、上場企業の法務部員であっても、そのような行為が独占禁止法・下請法・フリーランス法違反となり得る可能性が高いことを知らない人が多いのではないか、という印象を受けています。

実際の調査結果を見ても、2024年5〜6月時点でも「フリーランス法の内容を知らない」委託者が54.5%います。

参考:フリーランス取引の状況についての実態調査(法施行前の状況調査)結果 概要
令和6年10月18日
公正取引委員会
厚生労働省

https://www.jftc.go.jp/file/2024flsurvey.pdf


独占禁止法・下請法・フリーランス法違反となる、著作権譲渡費用の買いたたきや、著作権譲渡の強要によって得られた著作物を学習データとして作られたモデルや、そのモデルを元にしたアプリケーションの利用によって、元のデータ作成者に対して経済的・精神的被害が発生した場合、どのような救済や対処が考えられるのか?といったことも検討を行った方が良いように思います。

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【参考】イラストレーターが、自身が制作した画像を画像生成AIの学習&類似画像生成に使われた場合のリスク

現状、日本の著作権法では、いわゆる「AI無断学習」が認められています。
学習の結果として生成され、何らかの享受目的で利用された画像が、AIを使わずとも著作権侵害が認められるであろう画像だった場合には、通常の著作権侵害と同様に、差し止め請求、損害賠償請求などをすることができます。

しかし、仮に企業Aに著作権譲渡をしていた場合には、イラストレーターは既に著作権者ではないので、企業Aによる利用を止めたり、損害賠償請求をすることができません。
つまり、企業Aは、著作権譲渡を受けたイラスト画像を元にした類似画像を自由に作り、利用することができるようになります。

著作者人格権不行使特約を結んでいれば、同一性保持権や氏名表示権も行使できないため、名誉又は声望を害するレベルの使用がされているなど、相当な理由でないと使用を止めることができません。
また、イラストレーションデータを学習目的で販売することも可能であるため、類似画像は無限に生成できるということになります。

となると、本来であれば追加で発生していたかもしれない、追加ポーズなどの仕事のチャンスを逃すこともあるかもしれません。
契約条件が不明瞭であるため何とも言えませんが、実際に下記のような事例もあるようです。

“30歳代の男性イラストレーターは、ネット関連業者と業務委託契約を結び、アニメ風のキャラクターなどのデザインを手掛けていた。だが、生成AIが社会に広がり始めた約1年前、業者は男性が考案したキャラクターのイラストを断りもなくAIで作り、販売するように。男性に仕事を依頼することはなくなった。”

AI無断学習で作画「私の作品のつぎはぎだ」…コピーライト・ロンダリングがもたらす「文化の衰退」 : 読売新聞オンライン 

https://www.yomiuri.co.jp/world/20240214-OYT1T50020/

www.yomiuri.co.jp

画像生成AIの登場によって、イラストレーターにとって、「著作権譲渡」のリスクは、大幅に上がったと言えるでしょう。
参考:AIと著作権(令和5年6月 文化庁著作権課)

https://www.bunka.go.jp/seisaku/chosakuken/pdf/93903601_01.pdf

「みんなより早く逃げた」負い目を感じて生きてきたリアリスト(私と東大駒場寮 4)

西さんが暮らしていた東大駒場寮の部屋

西さんが暮らしていた東大駒場寮の部屋

東京大学駒場キャンパス(東京都目黒区)にあった「駒場寮」。私は、2001年に取り壊された寮の「写真集」の再制作にあたり、写真の使用許可を得るため、過去に取材した元寮生を探している。今回は、当時部屋の写真を撮らせてくれた元寮生のひとりで、現在は会社員をしながら、週末に中小企業診断士として活動する、西優(にし・まさる)さんを訪ねた。

現在の西優さん

現在の西優さん

独学で和裁を習得 週末は中小企業診断士の副業

――今日は着物ですけれども、自分で仕立てたものだそうですね。着物で会社にも行かれているとか。和裁はどこかで勉強されたんですか。

西:勉強……しましたね。和裁の本を2、3冊読んで……。

――えっ、本を読んだだけ?

西:そうですね。僕は、教科書を読んで理解するのは、割と人よりも優れているんじゃないかと。まあ、東大生はみんなそうだと思いますけど。

――着物は、駒場寮とは関係ありますか?

西:いや、ないですね。個人的趣味。

――今は何の仕事をしているんですか。

西:今はキャラクターグッズメーカーに勤務してます。平日は。アニメとかゲームのグッズを作っている会社です。

小さい会社なので、何でもやってる感じなんですけど、商品の入稿データのチェックから、商品の受発注、商品を納品したり、イベント出展の段取り組んだり……とかですね。

――週末に中小企業診断士の副業をされていると聞きましたが、なぜ副業をはじめたんですか?

西:中小企業診断士」っていう資格に合格したからです。せっかく資格を取ったからもったいないな、っていうのと、中小企業診断士は、弁護士とか公認会計士とかと違って、資格を更新するのに、いろいろ実務をやっとかないと更新ができないんですよ。

――では、お金を稼ぎたいっていうよりは……。

西:今のところは、社会貢献と、資格の更新のために、という感じですね。

「中小企業のトップはいつも孤独」西さんの中小企業診断士としてのホームページ

「中小企業のトップはいつも孤独」西さんの中小企業診断士としてのホームページ

――どうして中小企業診断士の資格を取ろうと思ったんですか。

西:大きな理由は2つあって。まず、実家が、結構長く続いている自営業で、結局僕が事業承継をしないので、僕の両親の代で事業がなくなってしまいそうなんですね。

あとは、駒場寮の元寮生と一緒に会社を立ち上げたんですけど、それがあまりうまくいかなかったので……それで、経営の勉強をしたいなあって思って。

経営の勉強をしたいっていうのと、事業承継に何か関わりたい、っていう。

――自分の家の家業を継ぐことができなかったから、それを悔やんでいると。

西:そうですね。

――その立ち上げた会社っていうのは、どういった会社だったんですか。

西:今の勤め先と同じで、キャラクターものの会社ですね。

西さんが暮らしていた東大駒場寮の部屋

西さんが暮らしていた東大駒場寮の部屋

西さんの部屋の間取り図(2001年作成の写真&インタビュー集より)

西さんの部屋の間取り図(2001年作成の写真&インタビュー集より)

入寮時には「いずれはなくなるんだろうな」と思っていた

――ご実家の経営状況については、過去のインタビューでもうかがいましたよね。「なんで駒場寮に入ろうと思ったんですか」という質問に対して、「貧民だからです」と回答されていますが、しかし、その頃は14〜15万円は仕送りがあったということでしたよね。

西:(大学が正規の学寮として用意している)三鷹寮は審査で落ちて、仕送りが減ったり、遅れたりしてきて……。2001年の夏頃は、仕送りが単調に減少していた時期でしたね。このあと仕送りがなくなるんですけど。

14〜15万と言っても月によって結構ばらつきがあって。仕送りの中から、大学院に行くためにお金を貯めていたんですけど、結局貯めたお金は実家に戻してしまいました。

西さんの1ヶ月の収支(2001年作成の写真&インタビュー集より)

西さんの1ヶ月の収支(2001年作成の写真&インタビュー集より)

――寮生活の中で、印象に残っていたことって何かありますか?

西:印象か……。温度差……ですかね……。寮運動(駒場寮廃寮・反対運動)をバリバリやる人もいれば、僕みたいにちょっと日和ってる人間もいたし。そこまで寮存続に活動的でない人間も、やっぱりいたと思います。

西さんが暮らしていた東大駒場寮の部屋

西さんが暮らしていた東大駒場寮の部屋

――西さんは、寮の存続はしなくていい、と思っていたということですか?

西:存続はしてほしいと思っていたんですけど、割と諦めがち……リアリストなんで。全体から見たら、僕みたいな日和がちな人間は……少数のほうだと思います。

これはとても言いづらいんですけど、入るときから、いずれはなくなるんだろうな……と思っていましたね。だから僕は中途半端な時期に入寮して、みんなより早く逃げたっていう、負い目を感じながら、20年生きて参りました。

これは、他の世代はどうだったかわからないけど……僕が東大に合格したときには、合格手続きの書類が入った封筒に、「駒場寮には近づかないでください」みたいな書類が入って送られてきたんですよね。だから、割とぽか〜んと生きてる人は、「東大がそう言うなら、そうなんだろう」って、ころっと洗脳されちゃうのかなあと……。

――じゃあ、西さんは駒場寮を見つけたのは、その大学から送られて来た書類がきっかけ?

西:そうですね。あとは、寮が発行してるチラシと読み比べて、「どっちもどっちだな」と思ったんですよね。どっちが正しいっていう判断はできなかったんだけど……お互い言い合ってるなと。結果的に、安いほうをとったって感じですね。

――経済的事情を優先した、ってことですね。

西さんが暮らしていた東大駒場寮の部屋

西さんが暮らしていた東大駒場寮の部屋

京大・吉田寮の現状はうらやましい

――京都大学で明け渡しが問題になっている、東大駒場寮と同じ学生自治寮の「京大吉田寮」の現状についてはどう思われていますか?

西:社会人になって1回だけ、遊びに行ったことがありまして……そのときに吉田寮生と話す機会があったんですけども。なんか、駒場寮より、しっかりしてるなあって……。確かに、汚いとか、管理が行き届いてないとかは、あるんですけど。ちゃんと、人が各部屋に住んでいて、活動しているなあって。

――京大の吉田寮は、私も2019年の春に行ったんですけど、本当に人が結構な人数、住んでいますよね。

西:駒場寮の後半は本当にさみしい感じだったので、そこがうらやましなあって、普通に思いました。本来だったら、自分で活動して、そういう状態に持っていくべきだったんでしょうけどね……。いかんせん、面倒くさがり屋なもので…(笑)

2年生から3年生になるときに、駒場から本郷にキャンパスが移動するじゃないですか。そういうところも、僕の諦めにつながったと思いますね。

西さんが暮らしていた東大駒場寮の部屋

西さんが暮らしていた東大駒場寮の部屋

――今やっていることと、駒場寮での生活がつながっていることって何かありますか?

西:駒場寮に入る」って言ったら、親にすごく反対されることが目に見えていたので、寮に入ったあとに事後報告しました。そういう「向こう見ず」というか、「とりあえずやってみる」的な精神は、寮生活に通ずるものがあると思いますね。

こう言っちゃなんですけど、中小企業診断士の資格を取るのって、結構難しいんですよ。それに対して、「とりあえず働きながら勉強してみっか」って、気軽に挑んじゃったのは、その辺のスピリットがあるんじゃないかと……5年かかっちゃいましたけど(笑)

(初出 『DANRO』朝日新聞社 2020/01/16)

petitmatch.hatenablog.com

東大生でない中川淳一郎さんが駒場寮で得た人生訓(私と東大駒場寮 3)

駒場寮の北寮9Bの部屋、「基礎科学研究会」、略して「KKK」の部屋

駒場寮の北寮9Bの部屋、「基礎科学研究会」、略して「KKK」の部屋

東京大学駒場キャンパス(東京都目黒区)にかつて存在し、2001年に取り壊された「駒場寮」。私はその寮を撮った写真集の再制作を、2011年の冬から始めていた。

2015年2月、ネットニュース編集者・PRプランナーの中川淳一郎さんから、突然メールが届いた。そのメールは、なんと「東大生ではないのに、駒場寮に2年間住んでいた。駒場寮廃寮反対運動にもちょっとだけ関わっていた」という、驚くベき内容のものだった。

今回は、中川さんと駒場寮の関わりを改めて詳しくうかがった。中川さん提供の寮の写真を交えながら紹介する。

現在の中川淳一郎さん

現在の中川淳一郎さん

予備校の講師に連れられて、駒場寮に出入りするように

――中川さんは、大学が一橋大ですよね? なぜ東大の駒場寮に関わることになったのでしょうか。

中川:初めて駒場寮に行ったのは、大学に合格した直後です。大学受験のために通っていた予備校の講師だったAさんという人が、駒場寮の北寮9Bの部屋、「基礎科学研究会」、略して「KKK」の部屋に出入りしていたんです。

駒場寮に住んでいた頃の中川淳一郎さん(中川さん提供)

駒場寮に住んでいた頃の中川淳一郎さん(中川さん提供)

大学に合格して、お祝いだ〜って下北沢に飲みに行って。そのあと「じゃあ今から駒場寮に行くか」って話になって、そのときKKKの部屋に初めて行ったんです。そのとき廃寮の話と「廃寮反対運動があってさ」っていう話も聞いて。

KKKは、長年続く部屋で、代々住人が入ったほか、かつて住んでいたAさんの教え子で、仲良かった人たちが、自然と集う部屋だったんです。Aさんが気に入った学生を、東大生中心ですけど、駒場寮に連れて行くっていう。

「廃寮反対運動にもちょっとだけ関わっていた」というのは…特に左翼的運動に興味があったということでは全然なくて、単にAさんと仲が良かっただけ。(寮から近い)下北沢で終電過ぎても飲んでたときに、泊まれる場所が欲しかった。そんだけ。あとは、OBのおっさんたちが花見のときに「戦うぞ〜!」とか言ってるから、なんか面白くて。「じゃあオレも協力するわ!」みたいな感じで。1994年の花見で、あとで一緒に住むことになる小泉将司くんとも知り合ったんです。

秋の寮祭の様子(中川さん提供)

秋の寮祭の様子(中川さん提供)

第2回で書いた「駒場寮祭」のステージの巨大な立て看板(中川さん提供)

第2回で書いた「駒場寮祭」のステージの巨大な立て看板(中川さん提供)

「代わりに面接受けろ」入寮の面接は「替え玉」で突破

――駒場寮に住むことになったのは、どういったきっかけからなのでしょうか?

中川:1998年の9月から、恵比寿でルームシェアしていたんですよ。でも、相手が翌年の6月に出ていったんですね。その部屋で1人で暮らしていたところ、同じ年の8月に、偶然、会社に自転車便のメッセンジャーとして小泉くんが来て、再会したんです。

ビックリして、「久しぶり、まだ駒場寮に住んでるの?」って聞いたら「住んでますよ。でも僕ひとりだと電気がもらえなくて…」と小泉くんが言うので。
(筆者注:当時、駒場寮は大学側に電気を止められていた。寮生管理の発電機による自家発電をしており、電気が使えるのは2人以上が住んでいる部屋の場合に限られていた)

で、オレが入ることによって、小泉くんがろうそく生活から脱出できるんだったら、いいんじゃないかなと思って。恵比寿にひとりで住むのもな〜って思っていたし。で、その8月末で恵比寿の家を出た。なんか、面白いかなって思ったんですよね。KKKにAさんが連れてきた東大生に「オレの代わりに面接受けろ」って言って、替え玉で面接を受けさせて入寮しました。

中川さんが暮らしていた部屋(中川さん提供)

中川さんが暮らしていた部屋(中川さん提供)

――このときって、普通に会社で働いてるわけですよね?

中川:そう。でも、スーツ着るわけじゃないから、単に、愛想が悪い、ちょっと年取ったやつがいるなと思われてたと思うんです。当時オレは26歳で、院生だったらそれくらいの年齢でもおかしくないですよね。

初めは特に会社は辞める気はなくて、Tシャツ屋さんを、副業でやろうと思っていたんですよ。在庫を200枚作っていて、会社のロッカーに入れてた。大学時代にTシャツを作って、数日で190万円売ったんですよ。そういう成功経験があったから、イケると思って。

会社を辞めようと思ったのは…あまりにも仕事が忙しすぎたから。あとは、その会社では出世しないことがわかったから。会社に、50代の暇そうなおじさんっていうのがいっぱいいたんですよ。出世しないで、ああなるのはやだなと。でも、出世してる人を見ても、深夜3時に打ち合わせとかしてるから、これもやだなと思ったんですよ。それで、会社員っていう生き方が無理って思ったんです。

それで、Tシャツを売ろうかなと。NIGO®さんに次いでSANGOさんになるか、って。

(筆者注:2000年前後、若者ファッションの流行として「裏原宿(裏原)系」というものがあった。NIGO®は裏原系ブームの火付け役とされるファッションブランド「A BATHING APE®」の創業者。猿のキャラクターTシャツは大ブームとなった。「NIGO®」は「藤原ヒロシ2号」の略。藤原ヒロシはミュージシャン、ファッションプロデューサー。つまり、中川さんは「藤原ヒロシ3号」→「SANGO」になりたいと思っていたということ)

でもその頃、今度は小泉くんが出ていかなければならなくなって、オレひとりの部屋になりました。ひとりになったので、電気なし生活になりました。

中川さんが暮らしていた部屋の間取り図(中川さんからの取材を元に作成)

中川さんが暮らしていた部屋の間取り図(中川さんからの取材を元に作成)

「経営と文体の基本は寮での読書で培った」

――それで、会社を退職されて……Tシャツ屋さんは、結局営業したんですか?

中川:ネット通販でやってた。メールで注文が入ったら、封筒に入れて送る。でも、36枚しか売れなくて。だから、全然忙しくないんですよ。今みたいにツイッターとかないし、ウェブサイトをどう宣伝していいのか、2001年当時は、全然わからなかったですね。

――中川さんが「cakes」で連載していたコラム「赤坂のカエル 」によれば、駒場寮では主に筋トレと本を読む生活をされていたようなのですが、どういった本を読んでいたんですか?

中川:松下幸之助の本を読んでいたんですよ。『商売心得帖』と『経営心得帖』。会社を辞めるときに、会社の先輩にいただいた本なんです。フリーになって、会社を経営するようになってからも、今でもこの本が仕事のベースになっていますね。ほかは、駒場寮にあったマンガとか……あとは、私物の椎名誠東海林さだお司馬遼太郎かな。

椎名誠東海林さだおに関しては、同じ本を繰り返し、何度も読んでましたね。今の文体のベースになっています。暇だからねえ。何回も読んでたから……。

そのときは、まだライターになろうかなとは、思っていなかったんですよね。

まだ、Tシャツの通販に可能性を感じていた。

中川さんと駒場寮の関わりの年表(中川さんの話を元に作成)参考文献:「赤坂のカエル」(「cakes」連載)、「東大駒場寮物語」松本博文:著(KADOKAWA)、「学内広報」No.1230 2002.2.22(東京大学広報委員会)「駒場寮問題の完結と将来の駒場キャンパス」

中川さんと駒場寮の関わりの年表(中川さんの話を元に作成)
参考文献:「赤坂のカエル」(「cakes」連載)、「東大駒場寮物語」松本博文:著(KADOKAWA)、「学内広報」No.1230 2002.2.22(東京大学広報委員会)「駒場寮問題の完結と将来の駒場キャンパス」

――「赤坂のカエル」で、「6月、雨が降る中、駒場寮で読書をしていたところで猛烈な焦りが生まれ始めた。」っていうところがすごく気になっていたんですけど……。

中川:いや、もうさすがに焦りますよね。27歳の男が、2ヶ月以上、何もしてないわけですよ。東大にも新入生が入ってきて、サークルとか楽しそうにやってる姿を見て、この子たちには華々しい未来が待っていて……将来、財務官僚になるんだろうなとか、マッキンゼー入るんだろうなとか。オレはそこまでいかないけど、大企業の社員の立場を捨てて、なにやってんだと。

でも、いま思えばそういう時間は大事だったと思いますよ。ここで経営の基本と文体の基本が培われているわけですからね。

強制執行の日は、寮生に迷惑をかけてはいけないと思って、オレはトイレの窓から逃げたんですよ。で、当時近所に借りてたアパートに大事な物を全部移動して、もう1回東大に戻ってきて、強制執行の様子を外から見ていた。

それから、大学の同級生の紹介で、7月から少し始めていたライターの仕事を、本格的にやりはじめました。

駒場寮のトイレ

駒場寮のトイレ

2001年8月22日、強制執行の様子

2001年8月22日、強制執行の様子

――これまでのお話を聞いていると、中川さんって、人との出会いを大事にしていて、誰かに声をかけられて、「面白いかな」って、それだけで行動してしまうところありますよね。柔軟に生きているというか……。

中川:人生って、自分の才能だけではどうにもならなくって、誰か引き上げてくれる人の存在なしには、開けないんですよ。藤井聡太さんみたいに将棋が強いとか、よっぽどの才能がある人は別だけど、普通の人は「誰と会うか」しかないんですよ。本にしてもそうですね。オレは椎名誠東海林さだおに出会った。人に会うことと本に会うことは一緒だと思います。

あとは、人生がうまくいくには、固定費を減らすことなんですよ。寮費が6500円でしょ?発電機代で1500円取られてるけど、本来5000円で。突然収入が減っても、固定費が少なければ、なんとかなるんですよ。それは駒場寮でつくづく身をもって感じたことですね。

あのとき駒場寮に2年ちょっと住んで、本当に良かったと思っています。

(初出 『DANRO』朝日新聞社 2019/09/27)

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「寮生は次第に孤立していった」毎日新聞記者になった元寮生(私と東大駒場寮 2)

酒造さんが暮らしていた東大駒場寮の部屋(窓側)

酒造さんが暮らしていた東大駒場寮の部屋(窓側)

東京大学駒場キャンパス(東京都目黒区)にあった「駒場寮」。2001年に取り壊されたその寮を撮った写真集の再制作にあたって、当時写真を撮らせてくれた元寮生たちに話を聞いている。

※写真集制作の経緯については、第1回の記事をご覧いただきたい。

今回は卒業後に毎日新聞の記者になった酒造唯(しゅぞう・ゆい)さんを訪ね、インタビューした。(初出 『DANRO』朝日新聞社 2019/07/10)

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取り壊しが決まった寮に住み続ける学生たち(私と東大駒場寮 1)

駒場寮の廊下、突きあたりにある窓。「寮生会議」のビラが貼られている

駒場寮の廊下、突きあたりにある窓。「寮生会議」のビラが貼られている

東京大学の主に1、2年生が通う駒場キャンパス(東京都目黒区)。そこにかつて、駒場寮という学生寮が存在した。1935年(昭和10年)の竣工で、設計は東大の象徴として有名な安田講堂と同じ内田祥三。建築から約60年後、廃寮・取り壊しをめぐり、大学側と寮生が激しく争う事態となったが、2001年8月22日、裁判所の強制執行によりその歴史に幕を閉じた。

私は東大卒ではなく、武蔵野美術大学の出身である。当時、ひょんなきっかけから、大学の卒業制作として、東大駒場寮の「写真&インタビュー集」を作成することになった。そのことが未だに残る呪いの元になるとは、思いもしなかった。

駒場寮カフェ。寮生によって運営され、コーヒーは1杯50円だった。

駒場寮カフェ。寮生によって運営され、コーヒーは1杯50円だった。

駒場寮の「写真集」を封印する

駒場寮が廃寮となった翌年の1月、私は東大駒場寮の写真と寮生のインタビューをまとめた手製写真集を完成させ、卒業制作展で写真や動画とともに展示した。

そのあと、1000枚以上の写真とネガ、動画が私の元に残ったが、長い間、これをどう扱ったらいいのかわからなかった。自分が撮影した写真を発表することに意味を見い出せず、写真集を封印することにした。ときどき古い建物が好きな人や駒場寮関係者などが「見たい」と言ったときだけ、写真集を見せるようにしていた。

その後、そのうちの一枚が、1960年代の学生運動を描いた柴田翔の小説「されどわれらが日々――」の新装版(文春文庫)の表紙に使われたりもしたが、モヤモヤした気持ちは晴れなかった。

駒場寮の廊下。柴田翔『されどわれらが日々――』(新装版/文春文庫)の表紙提供写真

駒場寮の廊下。柴田翔『されどわれらが日々――』(新装版/文春文庫)の表紙提供写真

マイ・バック・ページ」の衝撃

駒場寮の写真を撮ったあのときから10年がたった2011年の秋、映画館で「マイ・バック・ページ」を見て衝撃を受け、原作本も続けて読んだ。

マイ・バック・ページ」は、評論家の川本三郎さんが週刊誌の記者時代に、取材対象である活動家に心情的に深入りしすぎた結果、犯罪の容疑者を助けたとして逮捕され、会社からも解雇されたという過去が、回想録として書かれている本である。

この本を読むまで、私は川本さんのことを「有名な映画評論家で、雑誌の『東京人』とかで昔の東京の話とかを書いてる偉い人」だと思っていた。それだけに、その過去にも驚いたが、何よりも、川本三郎さんほどの人でも時代の空気に呑まれたり、過ちを犯したり、また、10年以上もモヤモヤした気持ちを引きずったり、書けなかったりするのか!!ということが衝撃だった。

「私自身のなかでも”あの時代”をどうしたらいいのか手立てがなかった。忘れたふりはできても忘れることはできなかった。”あの時代”の自分と”いま”の自分が二つに完全に分裂してしまっていて、どちらが自分なのかわからなくなっていた。”いま”の自分に居直ろうとすると必ず”あの時代”の自分がそれに異議を申し立てた。(中略)そして時代が明るくなればなるほど(しかし本当に明るいのだろうか)”あの時代”を自分の中で救い出したいという気持が強くなった。だが救い出すといってもどんな手立てがあるのだろう」


本の冒頭に登場するこの部分に、ものすごくシンパシーを感じた。

駒場寮の屋上の出入り口。ここも完全に蔦に覆われていて、古代遺跡のような神秘的な感じがした

駒場寮の屋上の出入り口。ここも完全に蔦に覆われていて、古代遺跡のような神秘的な感じがした

マイ・バック・ページ」を読んで、私も駒場寮について、なにか言葉を発しても良いのではないかという気になった。私も、あの時の体験を何か形にしても良いのではないか、いや、今しなければならない、と強く思った。

あの夏から10年がたって、一生忘れないだろうと思っていた記憶がどんどん薄れはじめていた。逆に、混乱していた気持ちが冷静になってきて、落ち着いて過去の写真を見られるようになってきた。

それから私は、駒場寮の写真のデジタル化を少しずつ進め、写真集を再び作り直すことにした。このDANROの記事では、写真集を再制作するにあたってデジタル化した「廃寮直前の駒場寮」の一部を紹介したい。

駒場寮との出会い

私が初めて駒場寮を見たのは2001年の5月。そのとき私は、武蔵野美術大学の4年生だった。

大学の授業で、駒場東大前駅近くにある日本民藝館に行った帰り、せっかくだから東大見物でもしてから帰ろうと思い、東大に通っていた中学校の同級生に連絡をとった。いきなりの連絡だったが、幸いにも会うことができた。

駒場キャンパスの門をくぐって、しばらく歩いたところで、私は駒場寮を「発見」したのだ。

寮の外観。地上3階建ての建物は、完全に緑の蔦に覆い尽くされていた

寮の外観。地上3階建ての建物は、完全に緑の蔦に覆い尽くされていた

渋谷駅から歩いて30分足らずの場所にこのような森があり、蔦(つた)が絡まる古い建物があるということは、当時の私にとって衝撃的だった。私は、その緑に囲まれた古い建物に、圧倒的な魅力を感じた。

中庭。高い樹木と、地面を覆いつくす雑草などで森のようになっていた

中庭。高い樹木と、地面を覆いつくす雑草などで森のようになっていた

寮の建物をもっとよく見てみたい。そう思って近づこうとしたら、同級生は「ここには近寄らないほうがいい」「興味を持つな」と言った。

なぜ近寄ってはいけないのか。詳しく教えてくれないので、「どういうことなんだろう?」と、逆に興味を持ってしまった。ここにはまた近々、写真を撮りに来よう。そう思った。

「古い建物を改造して住んでる人」の本を作ろうと思っていた

その頃の私は、大学の卒業制作のテーマを決めなければならない時期を迎えていた。

所属していたゼミはグラフィックデザインだったが、建築に興味を持っていた。特に、リノベーション(リフォームより更に大掛かりな改修のこと。壁をぶち抜いたりなど)やコンバーション(建物を本来用途から転用して利用すること)に強い関心を抱いていた。

今では、建物のリノベーションやコンバーションが当然のように行われ、そういう物件の流通も、割と簡単に行われるようになってきている。また、昔よりも「デザイン」というものへの関心が高まってきていて、インテリアやDIYに興味がある人も多くなったと思う。

しかし2001年頃は、自分が知る限り、「わざわざ古い建物を選んで、改造して住もう」という人はとても少なかった。主に建築学科の学生や美術系の人、あるいは、ものすごく建物にこだわりのある人だけが、古い建物を改造して住んでいた。

私が所属していたゼミでは、卒業制作は「本という形態であれば内容は何でも良い」ということだったので、「『古い建物を改造して住んでる人』についての本を作ろう」と考えていた。

なぜそこまでして、学生たちはここで暮らしているのか?

初めて駒場寮を見た日からしばらく後、私は改めて寮を見学しに行った。寮についても、いろいろと調べた。

駒場寮は、学生によって運営されている「自治寮」であるということがわかった。また、建物の内部は、住居であると同時にサークル部屋やカフェなどがある、多目的に使われている空間であることもわかった。

寮の廊下。ピンク色のドアの部屋は会議室

寮の廊下。ピンク色のドアの部屋は会議室

会議室。通称ピンクルーム

会議室。通称ピンクルーム

階段の壁一面に描かれた謎の絵画

階段の壁一面に描かれた謎の絵画

階段の壁一面に描かれた謎の絵画その2。誰の手によるものなのかは不明

階段の壁一面に描かれた謎の絵画その2。誰の手によるものなのかは不明

今では、こういった学生寮にカフェや多目的スペースがあるというのは珍しくないだろうが、2001年頃の日本には、そういったものはあまり存在していなかったと思う。

そんな駒場寮の最大の特徴は「廃止が決定された寮」だったことだ。私が訪れた10年前の1991年、大学当局は老朽化を理由として駒場寮を廃止し、別の場所に新しい寮を建設することを決めていたのだ。

学生たちは、大学当局の一方的な決定に反対し、独自に寮生の募集を行い、寮に住み続けていた。私の同級生は、大学の意向に反発する駒場寮生に対して良い印象を持っていなかったから、「興味を持つな」と言ったのだなと状況を理解した。

駒場寮の近くにある「森」の奥のほうには、学生たちが自前で管理している発電機があった。寮の建物は、電気もガスも止められていたのだ。なぜそこまでして、学生たちは、ここで暮らしているのか? そんなことが気になって仕方がなかった。

寮の台所。洗濯機、洗い場、ガスコンロ、作業用テーブルがある。洗顔や歯磨きもここで行われた

寮の台所。洗濯機、洗い場、ガスコンロ、作業用テーブルがある。洗顔や歯磨きもここで行われた

寮のトイレ。シャワーとして利用できるように改造されたブースもあった

寮のトイレ。シャワーとして利用できるように改造されたブースもあった

駒場寮に魅せられた私は、この寮に住んでいる学生たちの「写真&インタビュー集」を作り、それを卒業制作にすることに決めた。


(初出 『DANRO』朝日新聞社 2019/05/06)

petitmatch.hatenablog.com

イラストレーターの私が、実際に著作権譲渡を断るときのコミュニケーション術

はじめに

私はイラストレーターとして仕事をする傍ら、
独学で、著作権をはじめとした知的財産権の勉強をしてきました。
現在、三級知的財産管理技能士、ビジネス著作権検定上級の資格を持っています。

petitmatch.hatenablog.com

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最近では著作権についての記事を作ったり、

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勉強会やシンポジウムで、話す側になったりしています。

petitmatch.hatenablog.com

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このように私は、法律の勉強は一応しており、一定以上の知識は持っています。

私はイラストレーションの仕事において、基本的には著作権譲渡を行わない方針です。
著作権譲渡をしない理由は、いろいろありますが、簡単に言えば
「私に依頼されるようなイラストレーションの仕事においては、著作権譲渡までは必要ない。利用許諾契約で十分対応できる。」と考えているためです。
また、安易な著作権譲渡・著作者人格権不行使特約は、クライアント側にとってもリスクが高いと考えています。
そういった理由から、著作権譲渡・著作者人格権不行使特約の条件が出された場合でも、その条件は外してもらって仕事しています。

しかし、私自身が実際の実務の現場、イラストの仕事で、
クライアント側から著作権譲渡や著作者人格権不行使を言われて、その条件を外してもらうときには、実はほぼ、法律的な説明はしていません。
それで、著作権が自分にある状態で仕事できています(著作権譲渡の経験は全くないです)。
というか、そもそも、ほとんど著作権譲渡や著作者人格権不行使を求められません…

SNSを見ていると、著作権譲渡&著作者人格権不行使なしでイラストの仕事をするためには、何か「難しい知識」や「面倒な交渉」が必要だと思ってる人が、もしかしたら多いのかな? 
という気がしています。
そんなことはありません。

そういう方には、私の経験談がお役に立つのではないかと思い、
私が実際に、「イラストの仕事で著作権譲渡や著作者人格権不行使を言われて断るとき、どうしているのか」
を書くことにしました。私は、かなりシンプルな伝え方をしています。

あくまで法律の話ではなく、「私はこういうコミュニケーションをしている」という話です。 
ハッキリ言って、「ええ!!それだけ!?」みたいな内容だと思います。
大した話ではないのですが、念のため検索避けとして、有料とさせていただきます。

*免責事項 
この記事は、あくまで「私はこうしている」ということを紹介したものになります。
この記事を読み、実際にトラブルが発生した場合、読者・利用者又は第三者に損害が生じた場合であっても、当方はいかなる損害に関しても責任を負いません。

ご了承いただいた方のみ、ご購入ください。

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【ビジネス著作権検定上級への道】合格しました!&勉強法を紹介

ビジネス著作権検定上級 合格しました!

ビジネス著作権検定上級 合格しました!

合格しました

だいぶ前ですが…

6月に、三度目の正直で
ビジネス著作権検定上級 合格しました!
ウッうれしい🥹デジタル問題集のおかげです…
これで私が作る著作権関連記事にも、説得力が生まれるであろう。

合格までの勉強法を紹介します。

【勉強法・1】デジタル問題集を、正答率100%になるまでひたすら解く

www.sikaku.gr.jp

これは、パソコンやスマホで問題を解く、デジタル問題集です。
ふとんの中でもiPhoneで勉強できる!
眠れぬ夜などに問題解いてると脳が疲れて眠くなり、不眠も解消😴成績も向上😃✨
おかげで合格できました。

紙の問題集よりハイスピードで複数回解けるし、学習記録が残るのが良いです。

【勉強法・2】問題集で間違えたところは、公式テキストと文化庁テキストを読む

問題集で間違えたところは、公式テキストを読んで復習していたのですが…

なんか、公式テキストって、説明がわかりにくいと思うんですよね…
判例とかを出してくれるのはいいんだが…

そこで、3度目の受験で初めて、文化庁の「著作権テキスト」を読みました。

www.bunka.go.jp

著作権テキストは、文字通り、文化庁が出してる著作権のテキストです。

今まで読まなかったことを後悔した。こっちのほうが、圧倒的にわかりやすい!!!
無料だし!!
しかし、PDFしかない。でもPDFで十分な気もします。

使った教材は上記の3つだけです。
個人的な印象では、知識の正確性よりは、試験形式に慣れるほうが重要だと思うので、問題集を繰り返し解くのが重要だと思います。

この先どうするのか

ビジネス著作権検定は、上級が一番上位資格です。
現在、日本では著作権に特化した資格は、ビジネス著作権検定しかありません。

www.sikaku.gr.jp

知的財産管理技能検定は、知財マネジメントに関する技能の習得レベルを公的に証明するための国家試験です。

https://www.kentei-info-ip-edu.org/about/


合格者には「知的財産管理技能士」という国家資格が与えられます。
私は現在、三級知的財産管理技能士です。

petitmatch.hatenablog.com

今回、合格したあと、改めて知的財産管理技能士資格について調べました。

試験要綱>2.試験の種類>受検資格 より引用 https://www.kentei-info-ip-edu.org/exam.html

試験要綱>2.試験の種類>受検資格 より引用 https://www.kentei-info-ip-edu.org/exam.html

ビジネス著作権検定上級に合格していなかったとしても、私は「知的財産に関する業務について4年以上の実務経験を有する者」に該当します。
知的財産に関する業務=コンテンツ開発業務(イラストの仕事ほか)を、20年以上やってるからです。

二級を取らないと、一級の試験は受けられないと思い込んでいました。
知的財産管理技能士の二級受験の準備として、ビジネス著作権検定上級を受けたのですが…
*知的財産管理技能士の資格は、二級まで必要なのか?というと、ぶっちゃけ不要なのですが、なんか、「三級」なのが嫌で…「三級」って、字面としてダサくないっすか?と思っていました

じつは私、既に一級の受験資格があったのだな!


特許の勉強をしたくないので、二級飛ばして、ダイレクトに一級(コンテンツ専門業務)受けるのもありかもな〜と考え始めました。
実務経験があれば、二級より一級のほうが簡単、二級が一番大変と聞きますし…
実際、問題読んでも、全然取り付く島もないわけでもないなと思いました。民法とかを勉強する必要はあるけど…
ちゃんと勉強すれば、受かる気がするような問題だと感じました。

知的財産管理技能士は、知的財産法全部(特許・意匠・商標・著作権と、関連法規いろいろ)が試験範囲で、かなり広い範囲を勉強しなければなりません。
なので試験範囲が狭まると、それだけでも楽になるのでは…?

しかしまあ、今は目の前の実務、業務をがんばります。
私はイラストレーターの立場で、自分の実体験を元に、イラストレーターに役立つ法律情報を発信していきたいので、いろんな契約書を見るためにも、まずは仕事を頑張ることにしました。
今後も地道にがんばります🤓